伝統

勝海舟と坂本龍馬の歴史的会談の記念写真

本学園第二代校主・武田祐治立ち会いのもとで行われた勝海舟と坂本龍馬の歴史的会談の記念写真。
呉武田学園は、幕末(1818年)、明治維新の幕明けをもたらした長州に、文武両道の教育を目指して設置された家塾から始まる。
その第二代校主・武田祐治は、若き日、江戸の勝海舟の下で親しく学び、坂本龍馬が持論を捨てて海舟の門下生となった劇的場面にも立ち会った。
この写真は、その会談を記念して、後日わざわざ撮影されたものである。「この会談が新しい時代を切り拓く歴史的意味をもつ」という予感と自負が当時日本に伝わって間もない写真をあえて撮らせたのであろう。
それが現実となったことは、周知の事実である。なお、この貴重な写真の原板は、勝海舟が創設し、坂本龍馬が助手役となった海軍総連所にゆかりの江田島術科学校に寄贈され、現在、教育参考館に展示・保管されている。

「大隈重信侯 寄贈旗」に由来する呉港高等学校の校旗・校章

大正2年(1913年)武田易太郎は、国を担う中堅となるべき男子の教育をめざして、山口県に「大正学校」を創設した。これが、呉武田学園の原型である。
本校の校旗・校章は、その際、時の早稲田大学総長・大隈重信侯より寄贈された旗に由来する。
「社会に役立つ人材の育成」をめざす大正学校の建学精神は、実社会から遊離しがちな官学に飽きたらず、大隈重信侯が創設した早稲田大学のそれと、相通じるものであった。そこで、同じ志を意気に感じた重信侯が、後の第二代理事長・武田甲斐人が自分に師事し、早稲田大学に学んだ縁もあって、旗を寄贈したと伝えられている。
なお、現在の校旗・校章のデザインは、本校が呉市に移転した際、寄贈旗にあった武田氏紋章「割菱」の周囲を、呉の港に ちなんで、錨の鎖で巻いたものである。

武田家ゆかりの三神社

武田八幡宮[山梨県韮崎市]
武田八幡宮は、天文10(1541)年、武田晴信(信玄)が、父信虎の本田債権を引き継ぎ、竣工した。雄大な姿と華麗な装飾を備えた本殿は、昭和41年、国指定重要文化財に指定されている。
湫尾(ぬまお)神社[茨城県ひたちなか市]
湫尾神社は、慶安元年に再建されたと記録されています。武田郷の鎮守として武田大明神と尊称さた。名将武田信玄を出した、甲斐武田氏の発祥の地でもある。
新羅(しんら)神社[広島県広島市安佐南区祇園]
新羅神社は、武田山城(佐東・銀山城)の麓にある、武田氏の祖、新羅三郎義光を祀る神社である。鎌倉末期1200年に、安芸国守護の武田信宗により、甲斐国から勧請された。